
テーマを絞った小顔
右顎関節のあたりでガクガク、キュッキュッというクリック音が鳴りはじめた。
その一カ月後、上の前歯が前に出てきていることに気づく。
驚いて矯正歯科に行ったところ、歯を抜かないときれいに並ばないと言われたが、それは断って、前歯の隣接面をほんの少し削ることにしたという。
ところが、また右の顎関節のクリック音が鳴りはじめ、痛みだしてしまった。
次の日の夜は眠れないほどになり、噛吐感がするようになった。
さらに頭痛が加わり、急激に悪化してきたので、私のところにやってきたというわけだ。
矯正前の写真を見ると、たしかに歯並びが悪く、乱代歯といってよい状態である。
だが、それなりに奥歯も前歯もしっかり噛み合っている。
歯並びをよくしようとして歯列矯正をしたのが失敗だった。
一見きれいに揃ったように見えるのだが、上下の前歯が噛み合わな-なってしまったのである。
その結果、ひどい症状に悩まされることになった。
結局この治療には、四カ月間かかった。
一度狂った噛み合わせを一気にもとに戻すわけにはいかないからである。
悪いなりに慣れてしまった噛み合わせを一気に戻そうとすると、また別のところにしわ寄せがいってしまう。
そのために、時間をかけて少しずつ調整を加えていかなくてはならない。
この矯正の失敗例は、けっして例外的な症例ではない。
歯列矯正をした結果、体のあちこちに痛みや不具合を抱え込み、どうにも我慢できな-なって私のところに駆け込んでくる患者さんがあとを絶たない。
ところで、この患者さんの歯列矯正直後の写真を見ると、一見きれいに並んでいるように見える。
だが、噛み合わせの専門家がよく見ると、奥歯が高くなっていることがわかる。
その影響で、前歯に空きができてしまった。
これでは、前歯の役割を果たすことができない。
人間の歯は大きく三つに分けて、前歯、犬歯、奥歯の役割がある。
これは、ただ噛むという行為を言うのではない。
前歯、犬歯、奥歯が、顎の動きのバランスを取る機能をしているのである。
この三種類の歯の役割の関係が調和して、うまく働いているのがいい噛み合わせである。
だから、外から見て歯並びがきれいだからといって、前歯、犬歯、奥歯がバランスよ-働いているとは限らない。
逆に、歯並びが乱れていても、それぞれが役割を果たし、調和が取れていれば、問題はないのである。
この患者さんは、矯正したために前歯が本来の役割を果たせなくなってしまい、奥歯が前歯の機能を補っていた。
そのために、奥歯に負担がかかり、結果的に奥歯の働きがもともとの自分の許容を越えて、異常に強くなってしまったのである。
そのため奥歯に近い首の後ろあたりの筋肉が収縮し、凝りが生じる。
そして、口全体のバランスを失って顎関節痛や頭痛が発生したのである。
また、これらの影響が顎、顔面、頭頚部を中心とした筋肉系の不調和をもたらし、それとともに神経系、ホルモン系などにも影響し、不眠などの症状を起こしたのではないかと考えられた。
歯は、ただものを噛むためだけについているのではない。
岨噛筋や顎の骨などを介歯列矯正をしたために、上下の前歯の間に空きができた。
全身と複雑な連携を取って機能している。
そして、現在の自分の歯並びになるまで、さまざまな肉体的・精神的な要素と密接に関わってきたのである。
この患者さんで言えば、二四年もかけて、さまざまな要素を取り込みながら自分の歯並びができてきたのである。
1本1本の歯が、いろいろな情報を取り込みながら、最適なバランス関係を保とうとしながら成長してきたわけで、言ってみれば、心身の成長とともに、歯並びも成長してきたのである。
歯列矯正は、そのようにして成熟した歯並びを、見てくれが悪いという理由で、人為的に変えようとするものである。
二〇年以上かけて作り上げたものを、機能を保ったままで、ご-短期間で人為的に組み替えることができるのだろうか。
それを可能だと言い切れるほど、人体は解明されていないし、医学も発達していない。
歯列矯正は、原生林の木を切って、見た目のいい杉林にしようとするようなものである。
原生林というのは、何万年、何十万年もかけて出来上がったもので、そこには自然の絶妙なバランスが取れている。
実際に、原生林ならば防げたはずの水害が、杉林にしたために大きな災害になってしまったという話をよく聞く。
矯正した歯列にせよ、杉林にせよ、人為的に手を加えたものは、たいていどこかに大きな歪みを抱えてしまうことになる。
だからといって、ダメならすぐにもとの歯列に戻せばいいじゃないかというのは、原生林を人工的に作れというのと同じで、まるで無茶な議論である。
二〇年かけて出来上がった歯並びならば、それと同じだけの時間をかければ再現できるかもしれない。
しかし、たった半年や一年で理想的な形に戻せというのは、どだい無理な注文である。
逆に言えば、半年や一年で歯列矯正をし、その人固有のものとして確立させることなど、無理な話なのである。
噛み合わせ中心の治療を始めてから、歯列矯正につ小ての質問をよ-受ける。
最近では、見た目を気にする人が増えてきたためか、歯列の矯正がブームになっているようだ。
だが、これほど危険なことはない。
詳しくは、第五章で述べるが、今広まっている一般的な矯正法では、絶対にしないほうがいいと私は思っている。
歯を並べ替えるということは、そのまま噛み合わせの変化を意味する。
きちんと噛み合わせを確保しながら、微調整のできる矯正ならいいが、それができるのかどうかを見極めるのは至難の業である。
矯正の認定医といえども、歯を移動させる技術を持っているというだけで、噛み合わせと全身の関係を認識しているものは、限りなくゼロパーセントに近い。
しかも、矯正医と名乗っている歯科医の中には、カネほしさにそういう看板を掲げた〝にわか矯正屋〟がいるので用心したほうがいい。
実際に、私のところにくる重症の患者さんには矯正の被害者が多い。
はっきりとした症状が出なくとも、不定愁訴のような形で本人の気づかぬままに病的な状態になっている人はさらに数が多いと思われる。
繰り返すが、歯は全身と密接に関係しており、歯をいじると必ず全身のどこかに何らかの影響が及ぶ。
どうしても矯正を必要とするほどの病的な歯並びの人は、ご-わずかしかいない。
そういった人以外は、歯列の矯正はしないほうが身のためである。
見た目の歯並びの美しさと、調和の取れた噛み合わせというのは、必ずしも一致しない。
素人目で歯並びがきれいになっても、逆に噛み合わせのバランスが崩れてしまうことがあるのを忘れてはならない。
私たちはいたずらに、読者のみなさんを脅かしているわけではない。
ただ、これまでのように安易に歯の治療を受けないほうがいいと、まずお伝えしたいだけだ。
患者さんの口の中を見て「この治療さえしなければ、こんなことにならなかったのに」と思うことがあまりに多いのである。
まずは、患者さん自身が「安易に歯をいじるのは怖いこと」という認識を持ってほしい。
もちろん、歯科界のシステムや体質を変えることが先決ではあるが、それが現実となるのは、いつの日かわからないし、時間がかかる。
ならば、正しい知識を持って、自分の健康は自分で守るしかないのである。
私たちの歯科医院は、これまで述べてきたように、普通の歯科とは一風変わっている。
できるだけ削らず、歯を長持ちさせること、噛み合わせを調整し、体全体の健康を保つことに主眼を置いて治療に当たっている。
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